てつがく一問多答

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テーマ:哲学を語るってどういうこと?

このメーリングリストの名前は「みんなで哲学を語ろう」です。

さて、「哲学を語る」ってどういうことなんだろう?
そもそも「哲学」って何だろう?

このMLのコンセプトは「コンビニ哲学」です。
「コンビニ哲学」と「単なるおしゃべり」はどう違うのだろう?
どういうのが「哲学的会話」なのだろう?

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呟き尾形さんの回答

これは哲学を語るってどういうこと?の回答です。

 みなてつメンバーの呟き尾形と申します。

 まず、哲学とは何か?
 これを、私なりの解釈でお話させていただきます。
 哲学の本質は、自問自答することです。
 自問自答なくして哲学はありえません。
 たとえば、ある哲学者の言葉を丸暗記して、自問自答しなかったのであれば、それは、哲学とは言えません。

 学問としての哲学は、哲学史においての先人の著作物をネタに、自問自答しているとも言えます。哲学の研究所を読めば、まさに著者の哲学が語られています。
 それに対して、いわゆる人生哲学は、まさに、経験を通した自問自答した結果の事をさしていると思います。
 人生哲学も、経験を通して自問自答がなければ、経験を記憶しているに過ぎません。

 哲学を語る。というのは、そうした、自問自答の自問、および、自答を自分の頭の中だけではなく、他者を含めて言語化する行為であると言えます。
 つまり、双方向の会話であるのに対し、単なるおしゃべりは、言いたい事だけを言う一方通行の会話であると言えるでしょう。

 以上、みなてつメンバーの呟き尾形の場合の回答でした。

百歩さんの回答

これは哲学を語るってどういうこと?の回答です。

百歩っす。

『哲学を語る』ってどういうことなんでしょうね?
俺は、『自分をさらけだすこと』だと考えています。
そもそも『哲学』というのは、『知るを知ることを知ること』=『考える』だと俺は解釈しています。
これは、

知りたいことを知る

ということだけじゃなく、

知りたくないことを知ったり、知らなくていいことを知ったり、
知ってしまえば、自分の身に災いがふりかかるとわかっていても
知りたいと願ったり、

知りたいが死ぬまで知ることはできないことがあったり、
いったんは知ったけど、あとでまたわからなくなったり、
今はわからない、知らないけど、いずれ知るかもしれない。

しかも、その人の『知りたい』は、その人にしかわからない。
その人も自分で何が知りたいのか?わかっていないかもしれない。
その人の『知っている』は、他の人の『知っている』とは
違うかもしれないし
同じかもしれない。
その人の知らないことを、他の人が知っているかもしれないし
知らないかもしれない。
知っていて、教えてくれないこともあるかも。

知ったからといって、それが自分にとって大事なこととは限らない。
知ったことによって、満足するかもしれないし、不満に思うかもしれない。
知らぬが仏とばかり、知らないほうがよかったと後悔するかもしれない。

それでも、人間は『知りたい』という欲求から逃れることはできない。
知るを知ることが人間だからだ。

人は何かを知りたいといつも思っている。
自分の知りたいことは、自分にしかわからない。
でも、その何かを知るためには、
自分以外のものから求めなければ永遠に知ることはできない。
なので哲学は一人ではできない。
自分以外の他がなければ、自分を知りようがないからだ。
だから、自分以外のものに語ることで、『知る』は『哲学』になる。
自分の知りたいをさらけだすことが『哲学を語る』ことになる。

るなさんの回答

これは哲学を語るってどういうこと?の回答です。

1)哲学を語るってどういうこと?

哲学に限らず、私にとって「語る」ことは、「異文化体験の場」です。
自分では自分の考え方・感じ方しか知りようがないので、他の人にはどう見えているのか?というのに、単純に興味があります。
それによって、相対的に「自分にとっての見え方・考え方」がより深まるんじゃないかという気もするし。

2)哲学ってナニ?

「philo-sophia」だとすれば、「思索を楽しむこと」?
個人的には、「ナニか?」を考えるより、
「どうなってる(と思う)か?」を考える方が好みです。
「おお、こうか。」と納得できたりすると、結構楽しい。

3)コンビニ哲学と単なるおしゃべりの違い?

「おしゃべり」の中に、「テーマのあるおしゃべり」があって、その中でも、「考えることがテーマになってるおしゃべり」が、「コンビニ哲学的会話」、なんじゃないかな?
普通に生活してると、「テツガク的でない」という理由より、「カタクルシイ」という理由の方が、敬遠されやすいけど、ここだったら、多少カタクルシクなっても、苦しゅうない、
てなもんで。(このボケは、かなりクルシイ(汗))
  
個人的には、堅苦しくない哲学的会話ってのは、相当の手練でないと難しいと思うんですけどね~。
うーん、精進せねばなぁ~。

野狐禅さんの回答

これは哲学を語るってどういうこと?の回答です。

哲学は主張ではない。
問いの空間の設定である。

これがニーチェだ(講談社現代新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061494015/


僕にはこの言葉が強く印象に残っていて、哲学をするときいつもこの言葉を思い出します。

例えば「宇宙人は存在するのか?」と問うた時、哲学を語る上においては「いるとか、いないとか」はあまり重要ではなくて、また、「なぜいると思うのか?なぜいないと思うのか?」は少し重要だけどそれほど重要ではなくて、最も重要なことは「宇宙人は存在するのか?とはどういうことか?」ということではないか、という印象が「哲学」にはあります。
つまり、「宇宙人は存在するのか?」という問いが本当に問題にしていることは何なのかという、問いの核心部分を明確にしていく
「問いの空間の設定」にこそ哲学があるように思います。

「私とは何か?」「哲学とは何か?」「私はなぜ生きているのか?」という問いが哲学的な話題と思われるのは、それらが一見しただけでは答えがわからないような抽象的な話題であり、「私とは何か?」が言わんとしていることは何か?ということを問題にしないと先に進めないからこそ、これらが哲学的話題とされているのではないでしょうか。
宇宙人がいるかいないかとか、私が何者なのか、その答え自体は哲学において価値がなく、あくまでその「終わりなき過程」が哲学だと思います。

「単なるおしゃべり」とは、問いを発せず各自が知っていることや感想を延べ合う行為であり、「哲学を語る」とは、その背後に「問いを語る」ということが存在する会話のことだと思います。

「コンビニ哲学」とは、コンビニにでも行くような気軽な感覚で、日常にある身近な出来事を題材にして物事を考えることだと考えています。

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「てつがく一問多答」は、当メーリングリストで取り上げられた哲学的なテーマに対して、参加者が回答を寄せたものです。

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