てつがく一問多答

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テーマ:哲学は諸科学についての考察をせずに済ますことができるか?

哲学は諸科学についての考察をせずに済ますことができるか?


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テーマ:人は何によってある出来事が歴史的であると認識するのか?

人は何によってある出来事が歴史的であると認識するのか?

テーマ:人は知識なしに技能的習熟(savoir-faire)を持ちうるか?

人は知識なしに技能的習熟(savoir-faire)を持ちうるか?

テーマ:人は自分自身に嘘をつくことができるか?

人は自分自身に嘘をつくことができるか?

テーマ:人は美を判断するのか、それとも感知するのか?

人は美を判断するのか、それとも感知するのか?

呟き尾形さんの回答

これは哲学は諸科学についての考察をせずに済ますことができるか?の回答です。

 まず、科学とはなにか?
 誰もが、いつでも対象(主に自然)の法則を最も効率的に利用できるように、法則を体系化することです。
 科学において、その術を、仮説-実験・再現-考察というステップを経る方法論であるといえます。

 哲学においては、上記のような考察をせずに済ませる事が可能かどうか?
 ということが、この問いの回答となります。

 さて、上述した、科学的な手順によって哲学も考察することも可能ですし、むしろ妥当性があり、一見諸科学についての考察をせずに済ませる事はないようにも思われます。

 しかしながら、それは単純に、現代と言う時代の価値観においてのものです。
 哲学史を軽くみるだけでも、ギリシア時代などは、倫理や神話を前提とし、哲学されている時代もありました。
 同時に、キリスト教を前提として哲学されている時代もありました。
 となると、 必ずしも諸科学についての考察をしなければならない。
 ということにはなりません。

 また、哲学的思考を行うということは、自問自答であるとするならば、諸科学など必要ありません。
 自問自答なら諸科学について知識のない幼児でも可能だからです。

 また、仏教的世界観によって哲学的思考を行う、仏教哲学も存在します。
 仏教的世界観は、どうしても現代の自然科学においては手に負えない分野です。

 結論、諸科学を用いることなく、哲学的思考を済ませる事は可能。

 ということになります。それでは失礼いたします。

Laingさんの回答

これは人は何によってある出来事が歴史的であると認識するのか?の回答です。

 人は衝撃を受けた事件などを歴史的と認識するのだと思います。
 僕たちが毎日物を食べている行為は、日常的すぎて歴史的どころか、自身の記憶にすら残りません。
 しかし、今回の鉄道の事件や殺人、そういう日常的で無い物が歴史的なのです。鉄道に乗っている人の名前は記録されませんが、鉄道で亡くなられた方の名前は永久保存版で保存されるでしょう。殺人だって、記録として永遠に語り継がれます。

ウェルダン穂積さんの回答

これは人は何によってある出来事が歴史的であると認識するのか?の回答です。

歴史的事件とは
人のサプライズ係数(勝手に造語しました) だと思う

たとえばたくさんの 人が死ねばそれは 歴史的事件だけど
もしも だれひとり そのことを見ていなければ

「命の消失という」 激しいエネルギーの移動が行われたにもかかわらず
歴史的 とはならないのである。

したがって 歴史 とは 人が 目の当たりにした
人の眼を媒介した 恣意的な人間中心の自然の営みである

といえないだろうか。

見よ!これが歴史である。
これが人間であり 人間の想いである。

呟き尾形さんの回答

これは人は何によってある出来事が歴史的であると認識するのか?の回答です。

 こんにちわ。みなてつメンバーの呟き尾形です。

「人は何によってある出来事が歴史的であると認識するのか?」

 まず、報道などで「歴史的な出来事です」
 というコメントが入る場合、過去の記録を根拠として発展、ないし、変化した場合の事柄でです。

 そもそも歴史とは何か?
 歴史とは、私たち人類がしるした、時間の経過の記録と言えます。
 しかし、いくら、私たち人類がしるした、時間の経過の記録といえども、日常的なことは、歴史として記録には残しません。
 同様に、一般人。
 という、社会に大きな影響を与える事のなかった個人も歴史に名を残す事はありません。
 歴史に記されているということは、その是非はともかく、大きな変化をもたらした人物と事柄が記されています。

 上記の事から、人は大きな変化があった時「歴史的」と認識する。
 ということが言えます。

呟き尾形さんの回答

これは人は自分自身に嘘をつくことができるか?の回答です。

 まず、嘘をついている状態について考察します。

 嘘をついている状態とは下記のような状態であるということがいえます。
 1・事実をまげて空想したことを述べる状態。
 2・本当では無い事を主張している状態。
 3・事実を偽っている状態。
 4・事実に対して、間違っている状態。

 これを自分自身に対して、事実ないし本当を誤った認識にさせられるかどうか。
 ということが今回の問いの回答になります。

 まず、1の「事実をまげて空想したことを述べる状態」です。
 空想とは、基本的に自覚的に行われるものですが、そもそも空想とは、現実を無視して頭の中で想像することです。
 つまり、無自覚に空想してしまえば、自分に嘘をついている状態であると言えます。
 たとえば、「事実」を誤って認識する、ないし認識できない「事実」を無意識の内に空想で補うということは可能です。
 となれば、人は自分自身に嘘をつくことができるか?
 ということにおいては、1のケースにおいては可能ということになります。

 次に、2の「本当では無い事を主張している状態」です。
 「本当ではない」事を主張するためには、「本当である」ことを自覚している必要があります。
 本当のことを自覚しつつ、本当では無い事を主張し、かつ、自分自身に本当では無い事を信じ込ませるということは、論理的には不可能です。
 ただし、いわゆる「いい間違い」などによる、発音および表記によるミスによって、2の「本当では無い事を主張している状態」となったときは、本当を誤って認識させた。ということになりかねません。
 しかし、それはミスであり、自分自身に嘘をついた事にはなりません。
 なぜなら、「本当」を自覚しているからです。
 2のケースが成立する、嘘がついている。という状態とは、「本当でない」ことを「本当」であると認識させることです。
 しかし、2のケースが成立するためには「本当」のことを自覚していなければならないので、矛盾した事になります。
 ゆえに、2のケースにおいては、不可能ということになります。

 次に3の「事実を偽っている状態」ですが、これも、2と同じく、事実を偽るためには、事実を知っており、偽る自覚がなければ、事実を偽っていると言うことにはなりません。
 つまり、3のケースが成立する、嘘がついている。という状態とは、「事実」と知っている事を、自分自身に「事実」ではない。と認識させることです。
 しかし、3のケースが成立するためには「事実」を認識していなければいけないので、矛盾した事になります。
 ゆえに、3のケースにおいては、不可能ということになります。

 次に、4の「事実に対して、間違っている状態」ということですが、これは1のケースに類似しています。
 勘違い、情報不足、早とちり、先入観、思い込み、希望的観測、楽観、悲観、事実を誤認したいと言う気持ちを根拠とする推測、机上の空論。
 このような状態から、根拠も無く、事実と異なる事、つまり、事実に対して、間違っていることを事実として、確信してしまうことなど、日常生活において、多くあるある事です。
 もちろん、それをよいこととはしませんが、「事実」としてあるということです。
 だからこそ、人はさまざまな作業において、ミスをする原因や誤認の原因になるわけです。

 さて、上述の4つケースより、自分自身に嘘をついている事が成立する場合と、成立しない場合がある。と言えます。
 自分自身に嘘をついている場合は、結果的に事実ではない認識をしたということになり、これが「嘘をついている」と言えるかどうかということになります。
 つまり、主体的に「嘘をついている」事になるのか?
 「嘘をつく」というのは、原則として、主体的に行われなければいけない事です。
 もちろん、上記の4のケースによって、「事実を誤認したいと言う気持ちを根拠とする推測」という特殊なケースがあるものの、主体的に嘘をつくケースは、2と3のケースです。
 となれば、1と4は、本人にそもそも嘘をつくという意思はないことになり、それは、「嘘をついている」ということは成立しないと考えられます。

 すると、「嘘をついている」ということが2と3のケースであり、2も3も自分自身に嘘をつくということはできません。

 ゆえに、「人は自分自身に嘘をつくことができない」ということになります
 

ウェルダン穂積さんの回答

これは人は美を判断するのか、それとも感知するのか?の回答です。

美とは判断するものだけど
美を愛するものは
美を感知したと 「詩的表現」 をすると思う。

愛した人を 運命の人と 思いたくなるように

美は 美へと 逃げ
いつしか 真実を見失わせる 害悪となる。

呟き尾形さんの回答

これは人は美を判断するのか、それとも感知するのか?の回答です。

 みなてつメンバーの呟き尾形です。

 まず、判断と感知の違いについて考察します。

 判断とは、対象となる物事を理解し、考えを決めることです。
 それに対して、感知とは、感じることであり、気づく事です。

 一見すると、美が感知されなければ、「美」を「美」とは認識できないと考えられます。

 しかし、私たちの「美」を認識するメカニズムは、感知されるものではなく、美を判断するものです。
 なぜなら、人は、何かを認識するためには、感知された情報を判断しなければいけないからです。

 さらに言うなら、「美」は感知されるのでありません。
 対象を感じ、気づくためには、判断のプロセスが必要不可欠であり、「美」が「美」である根拠は、直観(直感ではありません)によるもののみです。
 つまり、「美」は直観することはあっても、(判断なしに)感知はされません。
 
 私たちが「美」を感知すると錯覚するのは、「判断」のプロセスがあることに気がつかないからです。
 感知は、判断のプロセスがなければ、「美」は、感知も直感もできません。
 ありえない話ではありますが、もし、感知だけであるなら、情報が入ってくるだけで思考処理がなされません。

 対象の「美」を認識するためには、対象となる「美」を直観を根拠に、対象の「美」を理解し、それを考えて対象の「美」が、自分の「美」の基準と照らし合わせ、それが一致していると”判断”しているからです。

 結論、「美」は感知される事はい。
 しかし、「美」は判断なしに認識はされない。
 ゆえに、「美」は判断されるものである。

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「てつがく一問多答」は、当メーリングリストで取り上げられた哲学的なテーマに対して、参加者が回答を寄せたものです。

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